【思考は現実化する】解説|10億ドルを生んだ華麗なスピーチ|ナポレオンヒルの成功哲学

今回の「思考は現実化する」の解説内容は、アンドリュー・カーネギーの後任となったチャールズ・シュワッブの物語です。

シュワッブは、雑貨店のタバコ売りから始まり、遂にはUSスチールの社長となりました。

USスチールは、チャールズ・シュワッブを筆頭に、アンドリュー・カーネギー、そしてJ・P・モルガンらによって創立された、当時のアメリカ第一位の製鉄会社です。

これは、現在でもアメリカで第二位のシェアを占めています。

チャールズ・シュワッブは一体どのようにして、まるで水と油のような、この二人を取りまとめることができたのでしょうか?

・自分は成功とは縁が無い
・ここぞというところで臆してしまう

このような想いを持っている人にとっては、勇気を分け与えてもらえるかもしれません。

今回の「思考は現実化する」の解説内容では

・明確な目標と計画の重要性
・信念を持って対応することの大切さ

これらについて学ぶことができます。

それでは早速、名著「思考は現実化する」の内容について、ナポレオン・ヒルの成功哲学に20年従事している専門家が、ひとつひとつ詳しく解説していきます。

度肝を抜かれた参加者

1900年12月12日の夜のことでした。
※この翌年、日本では八幡製鉄所が創業しています。

アメリカを代表する80人の資産家が、ある無名の青年実業家を招待するため、ニューヨーク五番街のユニバーシティ・クラブのホールに集まりました。

しかし、出席者のほとんどは、この晩餐会がアメリカの、いや世界財界を揺るがすほどの、重要な意味を持つことになろうとは夢にも思っていませんでした。

この会はエドワード・R・シモンズと、C・スチュワート・スミスの二人が、チャールズ・M・シュワッブから受けた、もてなしのお礼で開かれることになっていました。

両氏とも、アンドリュー・カーネギーの親友でした。

同時にまた、38歳のこの鉄鋼業界の新人、シュワッブを銀行家たちに引き合わせるという目的もありました。

しかし、ほとんどの出席者たちは、この青年がそれほどの辣腕家であるとは考えてもいませんでした。

シュワッブは馬車屋の子で、18歳のころカーネギー・スチールのブラドッグ工場の近くにある雑貨店で、タバコ売りをしていました。

その時、たまたまカーネギー・スチールの近くで働いていた関係から、同社の幹部であるウィリアム・ジョーンズと親しくなりました。

あるときシュワッブが「工場で働きたい」と言うと、ジョーンズは快く斡旋してくれて、従業員の一員に加わることができました。

ところが、入社後半年目には、早くもカーネギーの目にとまって、たちまち工場長代行にまで出世しました。

その後、工場長のジョーンズが事故死したため、その後任としてシュワッブが抜擢されることになりました。

さらに数年後、シュワッブはカーネギー・スチールの社長に任命され、さらにUSスチールが設立されてからは、その社長に任命されたのです。

ちなみに、ニューヨークの人々は、長い演説を好まないことで知られていました。

そこで「もし、好感を与えたいのなら、10~20分程度でスピーチを切り上げるように」と、そっとシュワッブに警告する人もいた程です。

シュワッブの右側に座っていたJ・P・モルガンさえもが、義理で出席しているような素振りに、人々の目には映っていました。

いずれにしても、翌日の新聞で報道されるような話題など、絶対あるはずがないような、ありふれたパーティーだったのです。

出席者たちは、例によって既にフルコースの料理を食べ終えていましたが、特にこれといった話題もなく、退屈しているように見えました。

シュワッブがホールを見渡しても、面識のある銀行家や実業家は、ほとんど出席していなかったのです。

彼は、当時モノンガヘラ河沿いの一部の地域、つまりピッツバーグ周辺でしか、有名ではなかったのです。

しかしパーティーが閉会する頃、後にUSスチール社の社長として億万長者となる青年に、財界のドンであるモルガンを始め、出席者全員が魅せられてしまったのです。

この時の、チャールズ・シュワッブのスピーチが記録されていないのは、歴史にとっても大きな損失であると言えるかもしれません。

シュワッブは、言葉遣いを気にしないので、ウィットに富み、ポイントも把握した話し方ですが、それほど修辞学的に優れたスピーチというわけではありませんでした。

しかし、シュワッブが語った、当時の金銭で10億ドル以上をも要する大計画には、さすがの出席者たちも、度肝を抜かれ、大きな衝撃を受けたのです。

90分という長いスピーチが終わっても、出席者たちはしばらくの間、そのスピーチに酔っていました。

ウォール・ストリートの帝王の異名を取るモルガンは、スピーチを終えたシュワッブを奥まった所に連れていって、二人だけで一時間以上も話し込んでいました。

晩餐会会場でのシュワッブの個性も強烈でしたが、それ以上に、人々の心に強く残ったのは、彼が発表した大規模で明確な、鉄鋼業立て直しの計画でした。

それまでにもさまざまな人が、モルガンの気を引こうと、新しい商品企画とか、鉄鋼業界の再編成の話などを持ち込んではいたのです。

遣り手の投機師として知られていたジョン・W・ゲイツも、モルガンに働きかけていましたが、モルガンは彼のことを全面的には信用せず、結局動きませんでした。

フェデラル・スチール・コーポレーションの社長で、連邦最高裁判所判事の経験もあるエルバート・H・ゲリーも、モルガンへ働きかけても動きませんでした。

JPモルガンはそれまで、自分はひとかどの大物実業家だと自負していたつもりでしたが、シュワッブの大構想を聞いて、すっかり肝を潰してしまったようでした。

ところが、この構想自体は他の業界において、もう30年以上前から知られているものでした。

それは、数千にのぼる小会社を吸収し、時には赤字経営の会社までも買収、合併して巨大企業を形成してきた戦略です。

鉄鋼業界でも、ジョン・W・ゲイツが策を巡らして小会社ばかりを買収し、それをチェーンにしたアメリカン・スチール・アンド・ワイアー社を創立していました。

しかしこれらは、アンドリュー・カーネギーの大規模な垂直統合組織と比較すれば、53社もが出資しているトラストでさえも、子どもの遊びのようなものでした。

どんなに彼らが団結をしても、カーネギーの巨大な組織には、微々たる影響さえも与えることはできなかったのです。

このことは、モルガンもよく承知していました。

カリブ海の海賊の誤り

頑固なスコットランド人、アンドリュー・カーネギーは、目を細めてスキボ城の展望台の上から、モルガンとの駆け引きを指示していました。

モルガンも勝ち気な男だったので、カーネギーには対抗意識を持っていたのです。

そのモルガンが、カーネギーを叩きのめす、最高の手段を見つけたのです。

しかしそれは、カーネギーにとっても好都合のことでした。

シュワッブのスピーチを聞いて、これまでの自分のやり方が、基本的に間違っていたことにモルガンは気づいたのです。

ある作家が述べたように「カーネギーの組織の全てを買収しない限り、モルガンの組織は、梅のプリンから梅を抜いたもの以上にはならない」と気付いたのです。

とはいえ、どうやってそうしたら良いか?という肝心なところが、どうしてもモルガンの頭の中には浮かびませんでした。

ところが、シュワッブのスピーチは遠まわしでしたが、カーネギー・スチールが近い将来モルガンに吸収されるだろう、と出席者にそれとなく知らせたものでした。

シュワッブは、世界的な視野で鉄鋼業界の将来を予測し、合理的な経営を行うために、組織を根本から再構築すべきことを提案したのです。

・工場や設備を整理してまとめる
・資本を一本化する
・原材料の流通を改善する
・政界とのつながりを強める
・国際市場へ参入する

これらの内容について、シュワッブは彼の構想を詳しく説明しました。

また、スピーチの中でシュワッブは、その昔、カリブ海に出没した海賊が、どのような過ちを犯して滅び去ったのかを話しました。

すべてを独占することで、価格を釣り上げ、私腹を肥やすという経営姿勢が、どれほど愚かな行為であるかを、納得のいくまで説明したのでした。

こうして、今までのやり方が「井の中の蛙」的なもので、鉄鋼市場を独占しようとすることが、いかに他の分野の産業の発展を抑圧してきたかを、指摘したのです。

そして、ここで発想の転換をして、鉄鋼の価格を値下げすれば、 加速度的なスピードで市場は拡大されるに間違いないこと。

そして鉄鋼は、ますます多岐にわたる分野で使用されるようになることを、熱っぽく語ったのでした。

彼は意識していなかったかもしれませんが、シュワッブは現代における量産システムの最初の伝道者となったのです。

ユニバーシティ・クラブの会が終わり、帰途についてからも、可能性に満ち溢れたシュワッブの計画を考えるほど、モルガンはなかなか眠ることができませんでした。

一方、シュワッブはピッツバーグに戻って、再びカーネギーのやり方で、鉄鋼の仕事を続けていました。

ゲリーやその他の晩餐会出席者も、家に帰って株式相場を眺めながら、次に何が起こるのかを見守っていました。

モルガンが、シュワッブの話に夢中になっていたのを、彼らは目の当たりにしていたからです。

それからモルガンが動き出すまでに、それほど時間は掛かりませんでした。

シュワッブが出した、あの晩餐会でのご馳走(つまりあの大構想)が、消化されるのに要した時間はたった一時間でした。

モルガンは、この計画で資金調達が難しくなることはない、と判断を下したのです。

そこで早速、シュワッブと手を組もうと考えたのですが、その前に心配なことが一つありました。

カーネギーが、自分の組織のメンバーであるシュワッブが、ウォール・ストリートの帝王と手を組んだことを知ったら、きっと不愉快に思うだろうと心配したのです。

ただですらカーネギーは、ウォール・ストリートを歩くことさえも、避けていたくらいに毛嫌いしていたのです。

そこで、仲介役としてジョン・W・ゲイツを指名することにしました。

すると、ゲイツは次のような計画を立てました。

それは、シュワッブがフィラデルフィアのベルビューホテルにいるとき、 偶然モルガンがそこに現れてばったりと出くわす、というよくあるシナリオでした。

これなら、意図的にモルガンとシュワッブが手を組んだことにならない、というわけです。

しかし、運悪くモルガンはその日、病気になってしまい、ニューヨークの自宅から外に出られなくなってしまいました。

仕方なく他の長老格の人間が間に入り、後日シュワッブは、ニューヨークで正式にモルガンと再会することとなりました。

ある経済史の専門家は

・このドラマは初めからアンドリュー・カーネギーが計画したもの
・シュワッブのために開かれたあの晩餐会
・今も語り草になっているスピーチ
・シュワッブとウォール・ストリートの帝王モルガンとの出会い

これらもすべては、遣り手のスコットランド人、カーネギーがお膳立てしたのだと主張していますが、実際はそうではありません。

カーネギーが「田舎の親方」と呼んでいたモルガンが、晩餐会でシュワッブの構想(説得)に、あれほど真剣に聞き入るとは、誰も予想していなかったのです。

シュワッブは、六枚の手書き原稿を用意し、熱を込めてスピーチを行ったのです。

カーネギーの夢と自分の夢を同時に実現させたシュワッブ

個人の力には、限界があることを述べ、新しい利益を創出する戦略を発表するシュワッブの姿は、まさに新しい鉄鋼業界のスターのようでした。

晩餐会では、シュワッブのスピーチについて、質問する人は誰もいませんでした。

なぜなら、彼のスピーチには疑いようのない、真実が盛られていたからです。

彼は、絶対の自信を持って力強く語りかけました。

そして、この計画は他の人が真似できるようなものではなく、また便乗して利益のお裾分けに与ろうという人々を、一切受けつけるものではない、としたのです。

「(金額の点で) カーネギーを説得することができるかね」

ニューヨークの自宅で、モルガンはシュワッブに尋ねました。

「やってみましょう」とシュワッブは答えました。

「買収がうまくいったら、あとは君にすべてを任せるよ」とモルガンは約束したのです。

ここまで、すべて順調に進みましたが、カーネギーは本当に承諾するだろうか?もし売却するとしたら、どれくらい要求してくるだろうかとモルガンは考えていました。

シュワッブは3億2000万ドルと見込んでいましたが、どう支払えば良いか、普通株、優先株、または債券か現金、もし現金なら、こんな金額は用意できないであろう。

一月の凍りつきそうなある日のことです。

ニューヨーク郊外のウェストチェスター、セント・アンドリュース・クラブ(ゴルフ・クラブとは無関係)を眼下に見下ろす丘の上に、カーネギーの別荘があります。

シュワッブはこの別荘を訪れ、カーネギー夫人のとりなしで、カーネギーとゴルフをするチャンスを持ちました。

セーターを着込んだカーネギーとシュワッブは、寒さをものともせず、賑やかに雑談を交わしながら、ゴルフを楽しみました。

しかし、暖かいレストハウスに戻るまでは、ビジネスのことはおくびにも出さなかったのです。そして、シュワッブは突然切り出しました。

ユニバーシティ・クラブで、80人もの資産家が魅了されたあの語り口で、気まぐれな老実業家の心を引きつけるよう、モルガンに資金の用意がある旨を伝えたのです。

カーネギーはよしよしと頷いて、何やら数字を書いたメモを、シュワッブに手渡して言いました。

「この値段なら、売ってやってもよかろう」

そのメモには、1ドル50セントと書いてありました。

これは、カーネギー・スチールの資産評価額を1とするとその1.5倍の金額、すなわち五億ドルを意味していました。

シュワッブからこの話を聞いたモルガンは、この要求を受け入れました。

決済は金の裏打ちのある、USスチールの社債(兌換社債)で行われ、まず3億2000万ドル相当分を引き渡し、残りは向こう二年間に引き渡すという条件で合意しました。

USスチール創立後、しばらくしてモルガンは、大西洋横断客船のデッキ上で、カーネギーに向かって

「もしあなたが、さらに一億ドル要求してきたら、私は支払うつもりでした」

と語ったと言います。事実、カーネギーは自社を売却するに当たって、過大な要求はしなかったのです。

もちろん、この事件で世界中は大騒ぎになりました。

イギリスの通信社は「このとてつもない巨大な組織に、世界中が腰を抜かすだろう」と打電しました。

またエール大学のハードリー学長は

「いつの日か法律で規制を受けるまでは、USスチールはどう少なく見積もっても、25年間はワシントンの帝王の座に君臨できるだろう」と述べたのです。

この大合同の直後、有名な相場師キーンが走りまわって新株を買い占めたため、6億ドルにのぼる他の株も瞬く間に暴騰し

・カーネギーは数百万ドル
・モルガンのシンジケートは合計6200万ドル
・その他ゲイツからゲリーに至るまで関係者全員

このそれぞれが、何百万ドルという利益を得ることができたのです。

そのとき、38歳のシュワッブが手にした報酬は、この新しい組織USスチールの社長の椅子でした。彼は1904年までその地位に在り続けました。

富はまず思考から始まる

この巨大な事業の劇的な物語は、願望が現実化していく過程を、完璧なまでに示しています。

この巨大な組織は、すべて一人の男の頭の中で考え出されたのです。

経済的な安定のために、組織を鉄鋼所と結びつけるという計画も、またカーネギーの自社売却の希望を実現させる方法も、一人の男の中で練り上げられたものです。

彼、つまりシュワッブの想像力、信念、願望、忍耐がUSスチールを生んだといっても過言ではありません。

新しい組織によって買収された鉄鋼所、および機器類は、単なる結末に過ぎません。

しかし、詳しく調べてみると、USスチールの資産の総額は、軽く14億ドルを超えていたのです。

一つの経営体系の元に会社を統合するという、たった一つの行為によって、これだけの儲けが生まれたのでした。

言い換えればシュワッブのアイデア、そして信念が、J・P・モルガンたちの心を動かし、それが結果として14億ドルの価格を持っていたということです。

考えてみれば、一人の人間の中の、小さな頭脳が生み出した、たった一つのアイデアと信念が、これほどの富を生んだのです。

何と、思考というものは偉大なことでしょう。

そしてUSスチールは、その後もますます繁栄し、アメリカ最大の企業となっていったのです。

「富は思考から出発する」

そして、思考の一つの形態である「願望」が富の姿、形を鮮明にしていくのです。

富に限界があるとすれば、それは願望実現を図ろうとする人の頭に、限界があるからに他なりません。

そういう時に信念は、限界を破る役目を果たすのです。

あなたが、あなたの人生で決断しなければならないとき、この物語を思い出して頂きたいのです。

もう一度言いましょう。 あなたが求める富によって、あなたの人生が決まるのです。

ここまでで学ぶこと

この業界全体を変えることとなった壮大な物語も、たった一人の男の信念によって作り上げられました。

それも元を辿れば、雑貨店のタバコ売りから始まった一人の男の手によって、です。

ナポレオン・ヒル・ゴールドメダリストでもある、世界の偉人たちも、発展によって世界に貢献したその始まりは、誰もがごく普通の一般人です。

その違いはと言えば、思考を願望に一点集中させていたことと、明確な目標を持ち、信念を芽生えさせ、諦めずに前に進んでいったから以外にありません。

成功を志すのであれば、まずはきちんと心構えを形成して、明確な目標とその達成計画を設定して、信念を芽生えさせて、前へと進んでいきましょう。