【思考は現実化する】解説|アンドリュー・カーネギーが下した決断

今回の「思考は現実化する」の解説内容は、アンドリュー・カーネギーの若い頃の実話です。

アンドリュー・カーネギーは、今でこそ当時の鉄鋼王として知られていますが、彼の人生は、何も特別な財産を持って始まったわけではありません。

それこそ、世間のどこにでもいる、その他大勢と変わらないところから、スタートしています。

世の中の多くの人たちが

・自分にもチャンスさえあれば…
・現在の境遇さえ違えば、自分も成功できたのに…

と、自分を納得させられるだけの、ネガティブな言い訳を用意して悲観しています。

しかし、アンドリュー・カーネギーも、世の中の多くの人たちと何も変わりませんでした。

唯一、世の中の人達と違った点と言えば、彼の持っている心構えが、ネガティブとは正反対のものを持ち合わせていたことです。

それでは早速、この実話の内容について、ナポレオン・ヒルの成功哲学に20年従事している専門家が、一つ一つ解説していきます。

こちらの内容に関しては、私達リアライズのYouTubeチャンネルでも聴く動画として上げています。

記事を読むよりも動画で聴いて学びたい方は、下部のリンクから動画を活用してみて下さい。

この記事を書いた人

1982年生まれ。2004年(22歳)から20年間自己啓発の世界に身を置き、自己啓発のプロフェッショナルとして営業、社内講演や研修をメインに活動していました。

ナポレオン・ヒル財団・アジア/太平洋本部で、日本唯一の販社オーナーとして当時の個人、代理店共に月間セールス日本一の記録も保持していました。

以下の自社取扱いプログラムを所有、実践しており、ナポレオン・ヒルが一番好きです。

  • ナポレオン・ヒル(成功哲学の祖。「思考は現実化する」など成功法則を体系化)
  • ジョセフ・マーフィー(マーフィーの法則や潜在意識活用法)
  • マクスウェル・マルツ(サイコ-サイバネティクス理論)
  • ジグ・ジグラー(自己イメージ改造理論)
  • ブライアン・トレーシー(営業の神様)
  • デール・カーネギー(道は開ける・人を動かす)
  • ジョー・ヴィターレ(引き寄せの法則を広めた「ザ・シークレット」の賢人エイブラハム)

現在はほぼ隠居状態でのんびり、山籠りで自給自足の生活も良いなぁとか考えたりしてます。

アンドリュー・カーネギーの生い立ち

アンドリュー・カーネギーは1835年、スコットランドで生まれました。

そして、1848年に移民として渡米し、ペンシルヴェニア州に身を置いています。

カーネギーは13歳になったとき、週給1ドル2 セントという条件で、綿織り工場の職工として就職しました。

その後、伯父の勧めにより、電報配達夫となっています。

しかし、背が低いというハンディがあったので、面接にパスするかどうか、彼自身不安があったようです。

幸いなことに、背のことに面接者のブルックス電信局長は触れませんでした。

「きみは、ピッツバーグの地理を知っているのかね?」

と面接で聞かれた際に、カーネギーはこう答えました。

「よく知りませんけれど、一週間で全部覚えます。 僕は小さい体ですが、他の人より二倍は早く走れます。ぜひ雇ってください」

こうして、面接に首尾よくパスして、その日からカーネギーは、週給2ドル50セントで、本格的な人生の第一歩を歩み出したのです。

その後、彼はトーマス・スコットという、ペンシルヴェニア鉄道の管理局長に気に入られるようになりました。

ここまでで学ぶこと

アンドリュー・カーネギーは、特別裕福な過程に生まれたわけではありませんでした。

一般家庭のそれと、何も変わらなかったのです。

世間一般の人が就く仕事と、スタートラインも変わりませんでした。

そして、誰もが持っているコンプレックスや不安の心も、持ち合わせていました。

しかし、そこで折れて終わってしまうことはしませんでした。

きちんと自分の短所を認め、相手には嘘偽りなく誠実に対応し、その上で、きちんと自分の長所の売り込みもおこなっています。

世の中の多くの人は、自分の短所を認めようとしなかったり、他人に虚勢を張ることをしてしまいがちです。

しかし、自分の短所を認めることをしなければ、現実と向き合うことができません。

そして、他人に虚勢を張ってしまうようでは、自分の周りに、いつまで経っても人が集まることもありませんし、周囲の信用を得ることもできません。

その点でアンドリュー・カーネギーは、自分にも他人にも、いついかなる時でも正直で在り続けました。

それでは続いて、彼の人生を大きく変えることになる、決断について見ていきましょう。

成功する人間はどう決断するか

やがて、カーネギーはスコットにより、ペンシルヴェニア鉄道の管理局にスカウトされることになり、管理局の電報受信システムを、一手に任されるようになりました。

ある朝、スコット局長が不在のとき、カーネギーは

「貨車が渋滞。客車も早朝から四時間ぐらい立ち往生。事故現場はアルツーナ付近の単線上」

という電文が入電して、 オフィスが混乱に陥っている場面に出くわしました。

東部管区で大事故があり、全線が渋滞してしまったのです。

放置しておけば、いつまで経ってもダイヤは回復しません。

しかし、スコット局長はどこを捜しても、見つからなかったのです。

そこでカーネギーは、問題点を抽出し、それに優先順位をつけて、一つひとつの問題について、解決の方法を考えてみました。

以下は、彼自身の自伝を引用しています。

『私の結論はこうだった。

私の力でも、何とかこのトラブルは解決できる!

しかし事態は急を要した。

放っておけば、第二、第三の大事故が誘発されるだろう。

私は意を決して、自分で指令を出し、事態を処理することにした。

無論、私の名前で列車を動かす権限などない。

そこで私は、スコットさんの名前を無断で使ったのだった。

「死ぬか、生きるか、運命の分かれ道だ」

と、私は自分に言って聞かせた。

クビになり、面目を失うばかりではない。

もしかしたら、法により処罰されるかもしれないのだ。

恩人のスコットさんには、どれだけ迷惑をかけることになるか、予想もつかなかった。

しかし、もし私の処理がうまくいけば、事故は防止され、一晩中、 全線の各所でストップをかけられて疲れ果てた列車や、貨車の乗務員を連れ戻すことができる。

私は今、全組織を動かすことができるのだ。

確かに、私にはできる。

なぜなら、私はこれまで事故が起こる度に、スコットさんから指令の電文を受け取って、それを電信で必要地に送っていたのだから。

私はこのような事態のとき、どうすれば良いかを具体的に知っていた。

それで、私は仕事にかかった。

私は、スコットさんの名前で指令を発信し、全線の列車や、貨車を動かし始めたのである。

スコットさん以外、絶対にやってはいけないことを、私は装置の前に座って、じっと動きを見つめ、駅から駅へと進行を見守り、慎重に事を運んでいった。

やがて、ダイヤは回復し始めた。

そこへ、スコット局長が出社して来た。

スコット局長は、既に事故のことを知っていたので、直ちに指令を発するための電文を作成しようと、鉛筆を手に取った。

その電文の内容は、私のものと同じであった。

ところが、私は仕方なくオペレーター室に向かい「 さて、どうしたものか」としばらく思案していた。

しかし、思い直してスコット局長の元へ行き、こう言った。

「局長、この電文は僕が、その… 打電済みです」

スコット局長の顔は、一瞬引きつったようになり、そしてかすれる声で「誰の…名前でかね?」と私に聞いた。

私は、もう腹を決めていたので「スコット局長の名です」とはっきり言った。

スコットさんは、私の顔を一分間ほどジッと見ていたが、私は下を向いて、スコットさんの顔を見ることなど、とてもできなかった。

彼は、私が発信した電文に、目を通しているようだったが、それでも無言だった。

そして自分の机の方に戻って行き、すべてが終わった。

会社の全員は、スコットさんを除いて、その指令はスコットさんが出したものだと信じ込んでいた。

ただ、私のやったことで、スコットさんが何も言わなかったので、私はひどく気まずい思いをした。

今後、同じようなことがあっても、はっきりと命令を受けるまでは、二度とこのようなことはやるまい… 私はそう自分に言い聞かせた。

結局、その日はスコットさんとは、ほとんど会話らしい会話もなく、ひどく憂鬱な気分で帰宅した。

翌日、私はピッツバーグ駅の貨物主任、フランシスカさんに呼ばれた。

彼は、私の顔を見るなり笑いながら

「昨日の朝はご苦労なことだったね。君のおかげで俺たちはずいぶん助かったぜ。感謝してるよ」

と言ったのである。

私は一瞬、彼が何を言おうとしているのか分からなかった。

私がとまどっていると、彼は事情を説明した。

昨日の夕方、スコットさんが彼の所へやってきて、こう言ったというのだ。

「きみは今日、僕の所のあの銀髪のスコットランドの坊主が、何をやらかしたか知ってるかい?」

「いえ、何かあったんですか?」

「何かあったってあの坊主、誰の指令も受けないで、僕の名を使って、全線の列車を動かしたのさ。それも僕よりも上手くね。褒めるわけにはいかんが…」

これを聞いて、私は胸を撫で下ろした。

これで今度、 スコットさんの居ないときに、次に事故が起こった時は、どうしたら良いか、私にはよく分かった。

この事件の後、スコットさんは列車の運転について、自分で指令を出すことは、ほとんどなくなったのである』

アンドリュー・カーネギーは、適切な行為をしました。

クビになる可能性はほぼ100パーセントでしたが、彼の使命感は、それを凌いで余りあったのです。

したがってスコット局長も、心の中では、彼の行動に感銘を受けたのでした。

1859年、カーネギーはスコットの後任として、管理局長を任されることになります。

それは24歳の時でした。

一方スコットは、やがて全米一の鉄道会社となる、ペンシルヴェニア鉄道の副社長になっていました。

カーネギーが30歳になった頃、彼の心の中には、次のような願望が既に芽生えていました。

「これからは鉄の時代、そして鉄道の時代だ。鉄で富を得よう」

こうして以後、彼は次々とその願望を実現していくことになります。

1863年 キーストン・ブリッジ会社設立
1867年 ユニオン製鉄設立
1873年 ベセマー・スチール・レール会社設立
1881年 カーネギー・ブラザーズ社設立

これが後に、カーネギー・スチール・カンパニーとなり、この時点で既に世界最大の製鉄会社となっていました。

その後、この会社は鉄鋼業界の一本化の線に沿って、USスチールへと発展を重ねていくのです。

この、鉄鋼業界の一本化をカーネギーが受け入れ、カーネギー・スチールを、新会社のUSスチールへ売り渡すことになったとき、彼は一つの条件を出しました。

それは、カーネギー・スチールの全資産の1.5倍に相当する、当時のお金で4億9200万6160ドルに相当する社債と株を貰う、というものでした。

この大合同の後、彼は一線から身を引き、これまで得た富を、さまざまな方面に寄贈することに晩年を費やしています。

そしてカーネギーは1919年8月、肺炎で静かに息を引き取りました。83歳でした。

彼は常々「人間がお金を持ったまま死ぬことは、とても不名誉なことだ」と語っていました。

この信念は、文字通り生前中に実行され、カーネギー・ホールを始めとして、約3000もの公共図書館を、 亡くなるまでの20年の間に寄贈しています。

そして、カーネギーはナポレオン・ヒル博士に、このような彼の実績を背景に、次のように語ったのです。

「私は既に、ほとんどの富を世の中に分配してきた。

しかし、もっと大切なものを、 まだ分かち与えていないのだ。

この事が私にとっても、常々気に掛かっていてね。

それは、世の中の多くの人々に、誰でもその気にさえなれば、豊かで幸せな人生を送ることができる、という秘訣を知らしめることなのだ」

ここまでで学ぶこと

アンドリュー・カーネギーは、決して無謀な決断を行ったわけではありません。

なぜなら、彼は問題解決の方法を知っており、それが解決へと導くことも知っており、それをしないことで起こる状況判断も、非常に的確だったからです。

全ては、彼の日常的な仕事に対する意欲と、上司の考えや行動に対する関心を、怠らずに持ち続けていた事が起因しています。

日常的に、上司の仕事や判断基準を、きちんと見ていたからこそ、正解へと導く思考を生み出すことができたのです。

もしカーネギーが、日々の仕事を事務的にこなしていたり、惰性で過ごしているだけでは、このような思考と決断には、至らなかったでしょう。

実際に、アンドリュー・カーネギーは、以下のようにも語っています。

「絶対に成功できない二種類の人間がいる。それは、言われたことができない人間と、言われたことしかやらない人間だ」

このカーネギーの言葉は、非常に適切に成功の核心を突いています。

平凡の先に自分の身を置くのであれば、カーネギーの言葉のように、その先へと進まないと、得られるものはありません。

これは、ナポレオン・ヒルの17の成功哲学の一つでもある、プラスアルファの魔法というものが、正にそれに当たります。

人生を変え、成功を志すのであれば、決断の質を上げ、人が求めるものより、多く与える習慣を身につけるようにしていきましょう。